「ルーヴル美術館芸術勉強法」とは、「素晴らしい芸術作品を味わうにおいて、何ものにも縛られずに、精神の自由を感じながら、時空間を超えて歴史を俯瞰的にまた個別的に往き来し、自分だけの思索を積み重ねてゆく勉強法」であり、Ecole du Louvre(ルーヴル美術館付属大学)の学生たちや、パリに住む多くの美術愛好家たちが行っている勉強法です。

 パリは“芸術の都”と言われます。それは、歴代の建築物が街を彩り、数知れぬ芸術家がこの街に集い、華々しい花を咲かせ、また膨大な作品が収集された美術館やギャラリーがいたるところに設置され、まるで街全体が芸術に奉仕しているかのような趣を呈しているからです。膨大な量の造形は、街行く人々の精神を揺さぶり、思索を促します。朝夕にノートルダム大聖堂を仰ぎ見て、ルーヴル美術館の柱列を眺め、休みの日にセーヌ河岸や彫刻の立ち並ぶ公園を散策する日々は、人々を芸術について考えることなしにはおかない状態にさせます。本物の芸術作品に日常的に接しながら生きること、それは遥か遠い時代、古代や中世やルネッサンスなどのあらゆる時代のものが、時空間を超えて、今、自分の目の前に生れ出たかのようなものとなり、今、生きている自分にとって、それらが何を意味するのかと日々問い掛けて来ることになるからです。

 また、パリは古代建築以外のほぼすべての西洋美術様式の本物を観ることの出来る街です。今日は古代を、明日は中世やルネッサンスをと、時代を追って観ることも出来ますし、ある書物に、セザンヌの言葉「refaire du Poussin sur nature(自然に基づいてプーサンをやり直す)」というような言葉を見つけると、オルセー美術館に行ってセザンヌの作品を鑑賞し、その後ルーヴル美術館に飛んで帰り、プーサンの作品を確かめるというようなことが出来る、つまり時空間を飛び越えながら、作品を観、そして思索を深めてゆくことが出来るということです。そして、何より有り難いのは、パリでは、すべての美術館や図書館があらゆる人類に開かれ、勉強をしたいと思われる方々に手助けをする教育機関として存在していることです。たった一人でも、学ぼうと欲すればいくらでも学ぶことの出来る環境があり、芸術を前にして思索することが日常的習慣として身に付くことになります。まさに、それこそが、芸術家だけではなく世界中の多くの人々がパリに住むことを憧れる理由です。

パリの建築物

 そうしたパリの状況を考えますと、残念ながら日本の実情はお粗末と言わざるを得ない状態です。日本においては、日本美術をもってこそそうあるべきなのですが、首都東京を見渡しても常設ですべての芸術を網羅して観られる場所はどこにもありません。また、多くの大学関係の図書館等の施設は、関係者だけにしか立ち入りが許されていないのが現状です。そして、それ以上に残念なのは、そういった勉強法は教育の中にほとんど存在せず、社会生活の中にもそのような習慣がないということです。もし、多くの人がそういった勉強法を修得されておられれば、一時的な展覧会ももっと有意義なものとなり、芸術に対する理解も深まるのにと思わずにはいられません。それは人生を豊かにし、芸術を心底享受するという歓びを与えてくれることでしょう。

 私の永年の思いは、そのような勉強法を多くの人に伝えられたらというものでした。そして、到底パリの環境は望めないとしても、限られた本物や印刷物やインターネットからの情報だけであっても、その習慣を自分の中で形作ることは出来るのではないかと考えました。自分が好きな作品を中心に具体的な知識を得、作品の観方を知り、「観る」という訓練を行なう、そして何より楽しんで続け、本物と接する経験と思索を繰り返す。少しずつ行なえば、誰でもが必ず出来るものです。その過程においては、感動的で美しい作品に巡り逢う、あるいは作品の背後にある人々の深い智慧と思索に触れることもあるでしょう。また、人類が求めてきた普遍的価値あるものとは何であるかを知ることにもなるだろうと思います。さらには、そういった作品に巡り逢い、それについて深く思索をすることが、自分のほんとうに好きなものを知らしめ、ひいては自分自身を知らしめてくれることにも繋がるのだろうと思います。

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